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公子さまの甘い手ほどき
翻訳はベッドの中で
依田ザクロ イラスト/カキネ

キーワード: 西洋 お仕置き 緊縛 淫具 媚薬

男爵の孫娘でありながら、わけあってひっそり暮らしているシャルロット。唯一の楽しみは、東の大国・鳴の長編小説『水寨伝』を読むこと。ある日、従兄からアカデミーで『水寨伝』翻訳の助手を募集するという話を聞く。頼み込んで受けた試験には落ちたが、訳者のオーギュスト公子に語学力や熱意を買われ、艶本でもある外伝の翻訳を頼まれる。うぶなシャルロットが訳し方に困って質問したところ、淫らな場面をオーギュストと再現することに…? 配信日:2017年4月28日 


 この人に、キスするの……?
 生まれてこの方、男性とおつき合いをした経験もなければ、当然くちづけなど夢物語。フレデリックとする親愛のキスならともかく、男女間の行為となれば、まったくの別物だ。
 ――緊張する。
 心臓が胸を破り、飛び出してきそうなくらい激しく高鳴っている。
「どうした? 早くしろ」
 オーギュストが訝しげに目を細め、催促をする。
 丁寧に教えてくれる彼をこれ以上待たせるわけにはいかない。ためらっているのはシャルロットだけ。深く考える必要はない。
 よし、と決意する。密着していた体を離した。硬い胸板へ手をついて体を支える。
 あ……。
 女性とは違う厚みのある感触に驚く。
 いけないわ。
 意識したらますます緊張してきた。手のひらが汗ばんでくる。
 さっさと済ませるのよ、シャルロット。
 首を伸ばし、勢いをつけ唇を押し当てた。
「んっ」
 無意識のうちに目を閉ざしていた。
 一瞬だけのふれあいだったが、忘れがたい感触が唇を襲う。
 なにこれ。頬とはまったく違う。しっとりして柔らかかった。なまあたたかくて、ふわふわして――、それなのに、ふれてもいない背筋がぞくぞくしている。
 今すぐ寝台へ身を投げ出し、四肢をばたつかせたい衝動にかられる。しかし、冷ややかな声が落ちてきた。
「ばかにしているのか」
 怒りがにじむ口調。まぶたを開くと、一切の表情を消し去ったオーギュストがこちらを見下ろしていた。
「十歳の子供だってもっとましな媚び方を知っている」
 体から熱が抜け落ちていく。
「あ……、ご、ごめんなさい……」
「この魅力的な肢体はなんのためにある? せっかくの可憐な黒い瞳をまぶたの下へ隠してどうする? 吐息を奪うキスとはなんだ? なにを吸いつくしたって? 真面目にやれ」
 違うんです。私はこれでも必死で。
 せっかく親身に指導してもらえたのに。突き放されたくない。がっかりされたくない。誤解されたくない。
「ふざけたわけではないんです! ただ、わからなくて」
「わからない?」
「その……誘惑、したこと……なくて」
 頭へかぁっと血が上った。妙な告白をしていると自分でも思う。
「『桃源譚』は誘惑シーンが多い。なぜなら、桃蓮が閨の睦言より父殺しの証拠を集めていくからだ。この物語の肝といえる部分でもある。それが訳せないのでは意味がない」
 オーギュストは平坦な声を出した。わざと感情を押し殺して語りかけているようにも感じられた。
 がっかりしたんだわ。
 このままでは契約破棄されてしまう。
 いやだ。せっかくの機会を無駄にしたくない。
 シャルロットは無我夢中でオーギュストの胸もとへすがりついた。
「教えてください!」
 青い目が見開かれた。シャルロットはたたみかける。
「不明な点はなんでも訊いていいとおっしゃいました。誘惑とはなにか、教えてください。ちゃんと覚えますから!」
「……本気か」
 オーギュストがこくりと喉をならす。
 まだ決意を疑うの? 信じてほしい。
 シャルロットはさらに距離を詰めた。大きな黒い目でじっと彼を見据える。
「お願いします」
 彼の瞳が揺れた。
 シャルロットの顔に影が落ちる。そうして、唇がふさがれた。
「……ん……ふ……」
 私、公子さまとくちづけしている――!
 一瞬で終わらせたシャルロット主導の接吻とは違って、柔らかい感触がぴったりと隙間なく押しつけられる。
 驚きに見開いたままの目は、彼の青色の瞳の中に見たことない炎が灯っているのをとらえた。とたん、体が火照るほど動揺する。
「俺を見ろ」
 思わずまぶたをきつくつむっていたらしい。せっかく教えてもらっているのにこれではいけない。あわてて目を開く。
「は、はい……、すみま……んぅっ」
 謝罪の言葉を口にしていたとき、ぬるりとなにかが口中へ侵入してきた。チロチロと歯列をたどり、シャルロットの舌先をつついてくる。
 え……っ、これって……!?
 したたる蜜でも舐めるように、オーギュストの舌がシャルロットの口腔を這いまわっている。
「……んんっ、……ぅ」
 信じられない。首を横に揺すって抵抗する。しかし、後頭部を抱き寄せられ、身動きが封じられた。くちづけがいっそう深まる。
 怯えて縮こまるシャルロットの舌を引きずり出し、執拗に絡めてくる。かと思えば舌先で歯茎の裏を抉り、口蓋をこするように刺激してきた。
 呼吸がうまくできない。
 頭がくらくらするのはきっと酸欠のせいだ。どうしようもないほど体が熱い。胸の奥が疼いてたまらない。
 これが……くちづけ……。
 漠然と想像していたものとはかけ離れていた。
 胸がときめく甘いふれあいだと思っていたのに。こんなにもなまなましく執拗な行為だったなんて。
 でも、いやなわけじゃない。
 彼の胸板へ置いた手をギュッと握りこみ、されるがままくちづけを甘受する。
「……ふ……っ、ん、んんぅ……」
 唇はいっこうに離れない。
 角度を変え唇をついばみながら、いっそう勢いが増していく。密に交じり合った唾液を吸い、粘膜を執拗に嬲ってくる。
「は……、ん、んふ……」
 貪るような接吻は永遠に続くのではないかと思えた。
 くちづけに酔わされ、瞳がとろりと潤む。
 こちらを見つめるオーギュストの目にも官能の色が浮かんでいた。それを認めたとたん、下腹部に重い疼きを覚えた。
 や……、なに……?
 甘苦しい。生贄の羊のごとく彼の前に四肢を投げ出し「どうにでもしてくれ」と叫びたくなる衝動。
 体の内側がざわざわ蠢き、淫熱がたまってくる。
 これが……堕ちるっていう感じ……?
 体のすべてが、彼の唇のもたらす甘い刺激に支配されていた。
 ほかのことが考えられない。