TOP>文庫一覧>ダイヤモンドの花嫁夫は淫らな家庭教師
ダイヤモンドの花嫁
夫は淫らな家庭教師
涼原カンナ イラスト/北沢きょう
クロエは焦っていた。亡き父から引き継いだ宝石工房が存続の危機に瀕しているのだ。しかし銀行から借金返済を迫られていたところ、青年実業家のアランが助けてくれる。五年前の一時期、彼はクロエの家庭教師だった。今は成功を収め、爵位も買ったという。そんなアランは融資の話を持ちかけてくる。その条件はクロエが彼の花嫁になること。初恋相手との再会のみならず、あまりに突然な展開に戸惑うクロエだ が、彼にくちづけられてしまい…? 配信日:2016年4月29日 


「先生、これは……」
「君のお父さんの遺言だ。かなえなくてはいけないと思っている」
「で、でも、めちゃくちゃだわ。わたしを先生の花嫁にしてくれだなんて……」
「そうかな。ダリウス殿は、わたしが一番頼りになると思ってくれたんだと感激したんだが」
「そうかもしれないけど……」
 だからといって、花嫁にしてくれと頼むなんて、あまりにも自分勝手ではないか。
 アランに想う女がいたらどうするのだろう。
「あのね、先生。無理して、花嫁にしてくださらなくてもいいのよ」
「何を言っているんだ、クロエ。わたしは喜んでいるというのに」
「喜んでる?」
「ああ、君を花嫁にしていいという許可をもらったんだから」
「そ、そんな……」
 あっけにとられるクロエの髪をアランはやさしい手つきで梳いた。
 髪に触れられているだけなのに、ぞくぞくとおかしな感覚が背を走る。
「せ、先生?」
「クロエこそ、わたしが嫌かい? 誰か他に好きな男がいるのか?」
 アランの視線が痛いくらいに強い。
 肩を掴む手に力が入って、指が食い込んだ。
「先生、痛い」
「ああ、すまない。もしも、そんな男がいたら、速やかに抹殺しなくてはと考えたら、つい力が」
「ま、抹殺って、先生?」
 物騒な単語にぎょっとして、身をすくめる。
 そうすると、アランは手をパッと離した。
 それから、まるで投降するときのように両手を耳の横で挙げる。
「許してくれ、クロエ。君を怖がらせるつもりはなかったんだが……」
「いいのよ、先生。気にしないで」
 それしか答えようがなくて、ぎくしゃくと微笑む。
 アランがほっとしたように穏やかな笑みを浮かべた。
「うれしいよ、クロエ。君はわたしにとって、大切なんだ」
「そう?」
 クロエは戸惑いを覚えつつうなずいた。
 アランは憧れの対象だった。そんな男性から大切だと言われて、面映ゆいと同時に困惑もしてしまう。
「クロエ、工房はわたしが助ける。だから――」
 アランがクロエの手をとり、まるで淑女にするように唇を落とした。
 心臓が止まりそうになる。
「花嫁になってくれ」
 それはどう考えても、求婚の言葉だった。
 クロエは息をひとつ呑む。
(どうしよう。どうしたらいいの?)
 アランがあらわれただけでも驚きだったのに、さらに求婚までされるなんて、思いもよらなかった。
 あまりに急な流れに、クロエはついていけずにいる。
「せ、先生。お言葉はうれしいけれど。わたしはまだ……」
「即答できない?」
 アランがクロエの小さな手をすっぽりとくるんで問いかける。
 戸惑いを隠せぬままうなずいた。
「先生の申し出はとてもうれしいのよ。助けてくださるというなら、お願いしたい。でも――」
 工房を助けてくれるという申し出も、求婚も、本当にありがたい。
 しかし、どちらもあまりに自分に都合がよすぎる。かえって信じがたかった。
(だって、先生の得にならなそうなのに……)
 工房はまだ小さいし、トランブレ伯爵夫人に悪評を振りまかれているから、挽回するのがたいへんだ。
 クロエ自身は美しくないし、財産があるというわけでもなく、むしろお荷物にしかなりそうもない。
 だからこそ、舞い込んだ幸運の大きさに不審感を抱いてしまう。
 うなずくことに躊躇を覚えるのだ。
「君にも考える時間が必要だね。いいだろう。三日あげよう」
「三日?」
「そう、三日。わたしがこの街に滞在する間に決めてくれ」
 商談をまとめるような口調に、圧倒されてしまう。
 アランは内ポケットから名刺とペンを取り出し、テーブルの上にかがむようにして書き物を始めた。
 近眼のせいなのか、アランは書き物をするとき、紙へ目を近づける癖があった。
 その癖が変わっていないことに、なぜかほっとしてしまう。
「わたしはここに滞在している。心が決まったら訪ねてくれ」
 渡された名刺の裏に書かれていたのは、この街で一番格式の高いホテルだ。
 前を通り過ぎるたびに、最上階にはいったいどんな人が泊まるんだろうと見上げるホテルに、アランが宿泊しているのだ。
「先生、あの……」
「クロエ。わたしは本気だ。三日後、君の返事をきかせてくれ」
 アランはやさしく笑いながら、頭に手をのせてきた。
 それは、かつて家庭教師をしてくれていたころ、クロエの回答に満足したときにする仕草だった。
 彼の手の大きさはあのときと変わらない。
 しかし、クロエの立場は大きく変化した。
 何も知らず父に守られていた小娘は、工房を守るという責任を負うようになったのだ。
「クロエ、わたしは帰るよ」
「じゃあ、お送りするわ」
 クロエは立ち上がり、ソファとテーブルの間から抜け出た。扉側に座っていたので、彼の邪魔になっていたのだ。
 アランはソファから立ち上がり、部屋の扉に向かって歩いていく。
 後ろをついていくと、彼がいきなり振り返った。
「先生――」
 疑問は口にできなかった。
 アランがクロエの腕を引いて抱き寄せたせいだ。
 抱きしめられると、アランの身体が意外とたくましいことに気づいてしまう。
 しなやかな筋肉に覆われた胸や、簡単に振りほどけない強固な腕に混乱しかかると、さらなる動揺が襲った。
 唇をアランの唇にふさがれたからだ。
 やわらかな唇がクロエの息を巧みに奪う。
 コーヒーの香りになぜか酔い、めまいがした。
 何度か角度を変えてついばまれると、身を震わせてアランへもたれかかってしまう。
 あまりの衝撃と羞恥に瞼を閉じていたが、そのうち窒息しそうになり、彼の胸を強く押した。
 すると、アランがようやく唇を解放してくれる。
 唇がじんじんとしびれていた。
 息が苦しくて涙が滲む。アランはクロエの唇を人差し指でなぞった。
 しびれていた唇に甘美なうずきを覚え、背に怖気にも似た感覚が走った。
「せ、先生……」
 鼻にかかったような甘ったるい声に、羞恥がさらに強まる。
 アランが眼鏡の奥の瞳を意味深に細めた。
「クロエ、いい返事を待っているよ」
 やさしく言って、髪を何度か撫でてくれる。
 唇を奪われて調子がおかしくなっているせいか、髪に触れられるだけで肌が粟立つ。
 奥歯を噛んでこらえていると、アランは小さく微笑んでから、扉を開けて廊下へ出て行く。
 送らなければと思うのに、クロエは動けない。
 唇を両手で覆い、頬を染めて立ち尽くしていた。