TOP>文庫一覧>狼伯爵にキスのご褒美を
狼伯爵にキスのご褒美を

水島 忍 イラスト/三浦ひらく
寄宿学校を卒業したリネットが故郷に戻ると屋敷は伯爵家のものになっていた。
両親は亡く、兄は行方不明。祖母は伯爵の館にいるという。 館を訪れたリネットは、滞在費代わりにキスを求められ…!?
発売日:2013年3月5日 


「そういえば……今日の宿代をもらわなくては」
「あ……でも……」
 心臓がドキドキしてくる。約束は挨拶程度のキスを、日に一度。しかし、彼はそれ以上のことを要求してきそうな雰囲気が今はあった。
「大丈夫。約束は……判っているよ」
 彼はリネットの手を握った。そのまま手の甲にキスされるかと思ったが、違った。彼はリネットの手をぐいと引き寄せると、抱き締めてきたのだ。そうして、リネットは彼の顔が自分の顔に近づいてくるのを、じっと見つめていた。
 目を閉じると、彼の吐息が唇にかかった。
 やだ……。唇にキスされちゃうの?
 今まで一度もこの唇は男性とキスしたことがない。
 でも……彼となら……。
 いつしか、リネットは彼にキスされるのを待っていた。唇に何かが触れる。けれども、それは彼の唇だけではなかった。
 舌……?
 舌で唇を舐められている。そう思ったとき、身体の中が熱くなったような気がした。リネットの思い描くキスというのは、そういうものではなかった。ただ唇を重ねるだけだ。だが、彼は唇を重ねるだけでなく、舌で唇をなぞっているのだ。
 なんて……なんて、いやらしいの!
 そう思うのに、彼を突き放したりできなかった。身体が震えている。だが、怖くて震えているのではなく、まして、憤りで震えているのではなかった。
 もっと……もっとしてもらいたい。
 そんな欲求が、身体の底から突き上げてきて、身体が震えるのだ。リネットはそんな自分に驚いていた。
 本能的に唇を開くと、その中に舌先がするりと入ってくる。けれども、遠慮でもしているかのように、ほんの少ししか入らない。そして、すぐに出ていく。また入る。出ていく。その繰り返しに、リネットは焦れてくる。
 もっと、ちゃんと……ちゃんと入ってきて。
 リネットは、自分がそんなはしたないことを考えたことに対し、愕然とした。けれども、彼の舌が自分の口の中ちゃんと入れられたら、どんな感じがするのだろうと思わずにはいられなかった。
 自分の舌と彼の舌が触れ合う。それを想像すると、何故だか身体の中が熱くなってくる。ドキドキするのに、彼はなかなかそれを実行してくれないので、焦れて自分の身体を彼に擦りつけるような仕草をしてしまった。
 ああ、わたしったら……一体何をしているのっ?
 そう思いつつも、何故だかやめられない。リネットは彼の掌の上で転がされているような気分になっていた。彼の思いどおりになってしまっている。それは間違いない。だが、問題は、それに気づいていながら、自分が彼に逆らえないことだった。
 だって、キスがこんなに気持ちのいいものだなんて、今まで知らなかったんだもの……。
 リネットは泣きたい気分で、そう思った。
 キスひとつで、こんなに淫らな気持ちにさせられてしまう。今まで培ってきたものが、リネットの中ですべて消えてしまいそうだった。あの修道院のような寄宿学校で学んだ道徳も、何もかも……。
 彼の舌がぐいと入ってきて、自分の舌と完全に重なった。
 そのとき、リネットの身体は今まで感じたことのない震えを覚えた。身体が何かを求めているのに、それがなんなのか判らない。リネットはもどかしくて仕方がなかった。
 彼はふっと唇を離した。リネットはガッカリした。約束は日に一度だ。それはもう終わってしまった。
 気がつけば、リネットは彼の首に両腕を回していた。身体の熱を持て余して、思わず彼の肩口に顔を埋める。とても親密な仕草なのに、それがとても自然なものに思えて、不思議だった。
 胸がドキドキしている。まだ現実に戻れない。身体の中の炎が荒れ狂っていて、どうしようもなかった。
 彼はそんなリネットの背中をそっと撫でた。そして、金色の髪の中に指を差し入れて、梳いていく。
 それさえも気持ちがいいなんて……。
 わたしは、どうかしちゃったんじゃないかしら。
 そうとし思えない。彼はまるで魔法使いみたいだ。たった一度のキスで、自分をこんなふうに淫らに変えてしまう。考えたら、とても恐ろしいことだ。
 リネットの脳裏に、ベサニーの声が甦ってきた。
『娼婦ってね、お金のためには裸になるんですって。男の人の前で脚を広げるそうよ。もちろん、裸で。それから、キスするの』
 リネットははっとして、身を引いた。自分は娼婦ではないつもりだが、彼の世話になっている。裸になったり、脚を広げているわけではないが、自分も似たようなことをしているのではないかという恐れが、リネットの心を蝕んだ。
「大丈夫だよ、リネット」
 ジェリドの穏やかで優しげな声がリネットを救った。
「明日は挨拶のキスに戻るから。今日は……」
 そうだった。さっき、亡くなったという友人のことで、彼は悲しんでいたのだ。それで、リネットは彼を慰めてあげたいと思った。彼のほうもそれを感じ取って、こんなことになってしまったに違いない。
 リネットは思い切って顔を上げ、彼と目を合わせた。宝石のような青い瞳が、リネットの心の奥底に潜むものを見抜いたのではないかと、心配になった。
それは、リネット自身も知らなかったものだ。自分でも驚くほど淫らな欲求があった。唇にキスされただけで、それは表に出てきてしまったのだ。そんな自分を、リネットは恥ずかしく思った。
「わ、わたし……」
「大丈夫だよ。今日は行き過ぎてしまっただけのことだ。何も怖くないから……」
「本当に? 本当にそうなの?」
 リネットはその言葉にすがりつきたかった。本当は怖い。怖くてたまらない。また彼にキスされたら、きっと同じようなことになってしまう。
 彼は手を伸ばして、リネットの唇を指で触れた。ドキッとして、身体をまた引いてしまう。彼はそれを見て、顔を曇らせた。
「唇のキスは……嫌だった?」
 頷きたかったが、頷いたら嘘になる。リネットは唇を噛んだ。嘘を言ったところで、彼には判るはずだ。嫌だったら、唇を開いて、彼を迎えたりしない。
「い、嫌じゃないけど……嫌じゃないから……嫌なの」
 訳の判らないことを言っていると思われるだろうか。上目遣いで彼の顔を見たら、彼は優しく微笑んでいた。それも、嬉しそうに。
 どうして、彼がそんなに嬉しそうな顔をしているのか判らない。けれども、もう悲しそうな顔をしていないことで、リネットは救われたような気がした。方法はともかくとして、彼から悲しみの陰を拭ってあげたのだから。
「君は……天使のようだね」
「わたし……違うわ。天使なんかじゃ……」
 天使は、キスされて、こんなに喜んだりしないに違いない。後ろ暗い欲求など、なにも感じないに決まっている。